「物差し」というのは、言い換えれば「単位」ですね。
あるいは「目盛り」とか「有効数字」なんていうことを合わせて考えればいい気がします。
目盛りの刻みが倍になる、有効数字が一桁変わる、これは要するに一単位が小さいものになるということ。
そうするとどういう影響が出るかといえば、誤差が小さくなる。
一単位が10分だったら、そこに収まらなければもう10分追加することになります。
でも、一単位が5分だったら、5分×2に収まらなかった時に追加されるのは5分です。
前者はトータルで20分、後者だったら15分で、5分の誤差が出ています。
逆に言えば、単位を細かく刻んでいけば、それだけ誤差=無駄が減らせるということ。
「時間が見える」というのは、そういうことを言っているんだと思います。
「物差し」と言うと、もっと根本的には「数量化」ということがあると言いたくなるかもしれません。
でも、これには反対です。
この時間の問題に関しては、全く数量化されていない、あるいは完全に連続的なものが、単位によって区切られて数量化される、ということではないと思います。
というのは、たとえ時計が全くなかったとしても、人は人生を色々と区切りながら生きているから。
一日ということだって、日没と睡眠で区切られていると考えることができるでしょう。
一日の中も、例えば三回の食事によって区切られていると考えることができると思います。
(もちろん一日二回しか食事をとらない人ならば、その二回で区切られているでしょう)
食事ではなくても、色々な行動を区切りとか節目にすることができます。
というか、ふつう人はそうしていると思います。
だから、時計やタイマーによって時間を見えるようにするという話は、あくまでも単位の細分化・精密化なのだと思います。
もちろん、精密化が人間の生き方に大きな影響を与えうることは否定しません。
自然のリズムの中での人間の生活による区切りから、時計によって標準化されたリズムに移行したことが、大きな変化であったことは間違いないと思います。
勢いで言ってしまえば、人間の行為が時間=生活リズムを測るものから、測られるものになったということなのです。
このことを「数量化」と呼ぶならば、それはそれです。
人間の行為が基準ならば人間の意識にのぼらないところまで「物差し」にすることはできませんが、時計ならばいくらでも精密化していけるので、それこそが厳密な意味での「数量化」なのかもしれません。
でも、全くの連続体を切り分けたのではないと思います。
人間の生活リズムも、時計も、ある意味ではどちらも天体の運行をもとにしたものです。
測定方法のパラダイム・チェンジではあっても、無測定から測定への移行ではないでしょう。
…だいぶ飛んだ話になりましたが、タイマーの意義の話に戻れば、これは単位の精緻化ということだと思います。
それがまた人間の時間感覚に取り込まれていくという点も面白いとは思いますが、長くなったのでひとまずこの辺りでお終いにします。
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